オシロとは?
作家・アーティストをエンパワーするために、
コミュニティ・ファーストという考え方をベースにした、
専用のプラットフォームシステム「OSIRO」を開発し、
日々それをブラッシュアップしている会社です。
まだまだ抽象的、 そして一部の方にしか提供できていませんが、
いつか多くの人に使ってもらえるようなサービスに育てられたら。
そんな思いで試行錯誤を重ね 「日本を芸術文化大国にする」ために邁進しています。
今回は、そのシステムの発案者であり会社の代表取締役社長である、杉山の話。
なぜアーティストなのか?なぜコミュニティなのか?
そして「日本を芸術文化大国にする」とはどういうことなのか。
オシロに至るまでと、これからの展望を語ります。
でもちょっと長いので、この4つにわけてお届けしていきます。
・ デザイナーとしての経験
・ いつの間にかサロン化したオフィス
・ 初めて作った自社サービス「I hav.」
・ OSIROの今とこれから
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・ デザイナーとしての経験
国も、業界も越えて。動き続けたデザイナー時代
デザイン科の学生だった時に、インターネットカフェを運営している映像製作会社でアルバイトをしていました。日本でネット関連の事業をしている会社はまだ珍しかったし、絶対面白い!と思って頼み込み、半ば無理やり入社したんです。職場ではネットも使えたし、CG制作もできるとあってあっという間にのめり込んで、週5日で出勤。そのままそこでずっと仕事をしていたんですが、段々と実際に行ったことのない場所をCGで作っていることに歯がゆさを感じてくるようになりました。有名な建築物もアートも、実際のものを見たことがなかったし。だから、当時の上司が辞めるのを機に世界一周に出ることにしたんです。
はじまりは用賀インターで、そこからヒッチハイクをして港に出て上海へ。貯めたアルバイト代が尽きるまで20か国をまわってきました。上海から陸路でロンドンまで出て、生まれて初めての飛行機でカナダへわたり、そこからアメリカ大陸を横断し、カリフォルニアへ出て帰国。ひとつひとつ語り始めるとだいぶ長くなってしまうのでここでは割愛しますが、本当にいろいろなことがありました。で、主に旅の間は友人を訪ねたり、有名な美大を巡ったりしていました。そこで感じたのは海外、特にヨーロッパでは国からアーティストへの支援がしっかりしているということ。アーティストの地位が日本とはまったく違うことを実感して、とても羨ましく思いました。
そんな思いを抱えつつ、帰国後はフリーのデザイナーとしてキャリアをスタートさせました。でも仕事がたくさんあるわけではないから、お金はないけど時間はある状態。だからひたすら作品作りをして、デザインコンペに出品をしていたんです。気になる作品や洋書を食い入るように見て、作品作りに励んで……寝る間も惜しんでやっていましたね。この時ひとり、孤独に作品に向き合った記憶は、僕の中に今でも色濃く残っています。でもそのおかげもあってか次第に賞を取れるようになって、周囲の見る目も変わり、仕事も入るようになりました。
けれど次第に、ひとつひとつのビジネスに一時的にしか関われないことにモヤモヤ感を覚えるようになったんです。デザインという切り口ですごく真剣に考えるのに、事業のオーナーのようにリスクを取らないことがもどかしくて。さらに、当時「ビジョナリーカンパニー」という本に出会ったのもその気持ちに拍車をかけました。僕も時を告げるのではなく、時計を作る経営者になって、100年続く企業を作りたい……!とても感銘を受けて、ビジネスの当事者となりたいという気持ちが日ごとに強くなっていました。
そんな時に出会った友人と一緒に、新たに金融サービスの会社を立ち上げました。当初、僕自身は金融にそれほど興味がなかったんですが、彼の話を聞くほどにこれはなんとかしなきゃという気持ちが強くなって。家族や自分自身の経験からもすごく共感したんです。彼は「日本の金融業界に新しい風を吹かせる」という想いで、セルサイドのアドバイザーではなく、バイサイドのアドバイスをしてくれる独立系の金融アドバイス文化を日本に作ろうとしていました。僕はそこで、日本の金融業界が変わればお金の心配がなくなる人が増える、そうするときっとみんながやりたいことができる世界がくる。その先で、懐にも心にも余白ができて文化芸術に触れる人がもっと増えるんじゃないかと思ったんです。そうしたらきっと、アーティストの助けになる。欧州のようにアーティストが食べていける世の中に近づける!と。壮大ですが、根本にメスを入れることに使命感を覚えていました。 けれど当時は、事業計画書を投資家に見せるもことごとく否定されまして……。業界を変えるなんて無理だ、と何度も忠告を受けました。でもそこでやめるっていう選択肢はなかったし、あらゆることをしました。創業者2人で一緒にビラ配りやWEBマーケティングもやりましたし、講演会もやりました。で、さらには本も出版したんです。僕たちは有名ではなかったけど、掲げているミッションには本当に自信があったから、きっちり伝えられたら絶対共感してくれると確信していました。だから読んでくれたらすごく強い、と思って本を出版することにしたんです。それで当時知り合った出版社の社長に協力してもらいながら、相方が著者として僕らの思いを書き上げました。そして幸運にも、無名の著者にもかかわらず本は3万部が売れ、危機的状況だった会社の潮目が変わっていったんです。講演会の参加者の目が輝きはじめましたし、「本の内容が良かったから」と上場企業からも依頼が入るようになり、だんだんと会社の経営が上向いていきました。今では預かり資産300億円を超え、独立系の金融サービスのリーディングカンパニーになるまで成長しているんですよ。
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vol.2 いつの間にかサロン化したオフィス